横浜の歴史と共に時を刻んできた建造物たち

港町横浜は、開港とともに多くの欧米文化を吸収して発展してきました。その流れの中、明治から昭和初期にかけてたくさんの今に残る建築物も建てられました。しかし、1865年(慶応2年)の豚屋火事では、外国人居留地を含め市街地の3分の2が焼失。1923年(大正12年)の関東大震災で10万戸以上が倒壊、焼失してしまいます。

第二次世界大戦においては、500機というB29爆撃機の大編隊が横浜の街を襲い、焼夷弾による爆撃を受け、横浜の中心部はほとんどが焼け落ちおよそ8万戸が全焼しました。幾度の災害を乗り越えて、再建を繰り返し、市民の想いとともに現在の横浜は形成されてきました。

こうして横浜には、開港以来の近代建築や西洋館、土木遺産が残されています。横浜市はこれらの歴史的資産を再評価し、街づくりの資源として位置付け、その保全と活用を積極的に図っていくため、昭和63年(1988年)に「歴史を生かしたまちづくり要綱」を施行しました。

所有者の協力を得て、主に建築物の外観を保全しながら活用を図ることを目的としており、要綱に基づいて「登録」「認定」を進めています。こうした様々な想いと努力の元、現在の横浜はあります。横浜駅周辺の再開発が進み、みなとみらいの最先端のビルや施設が注目されがちですが、ぜひ今度横浜に遊びに出かけた際には、当時の横浜の情景を思い浮かべながら歴史を感じられるスポットを巡ってみてください。

所在地
横浜市西区みなとみらい2-7-10
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治31年(1898年)
国宝・重文区分
重要文化財
設計
恒川柳作
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

旧横浜船渠株式会社第一号船渠は、建設当時、最大規模を有した明治期の代表的乾船渠(ドライドック)の一つである。建設当初、第一号船渠は、総長約168メートル、上幅約34メートル、渠底幅約23メートル、渠内深さ約11メートルの規模を有した。

その後、大正期の改修で、渠頭部方向に拡張して総長約204メートルとなった。1985(昭和60)年からは、1号ドックと周辺が日本丸メモリアルパークとして整備され、帆船日本丸を係留するドックとして保存活用されています。

1号ドックは「旧横浜船渠株式会社第一号船渠」として2000(平成12)年12月4日に国の重要文化財に指定された。さらに、係留されている帆船日本丸も2017年9月15日に国指定重要文化財となった。

旧横浜船渠第2号ドック

所在地
横浜市西区みなとみらい2-2-1
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治29年(1896年)
国宝・重文区分
重要文化財
設計
恒川柳作
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

旧横浜船渠株式会社第二号船渠は、英国人技師パーマーの提言に基づき、明治22年設立の「横浜船渠会社」が明治29年に建設した船舶補修用のドックである。

民営のものとしては、現存最古の石造乾船渠(ドライドック)であり、邦人技師の手による明治期の土木技術を今日に良く伝えている。

総長約128m、上端幅約19m、渠内深約9mの2号ドックは、隣接するランドマークタワーの建設に併せて保存修理を行い、イベントスペース「ドックヤードガーデン」として活用されています。

最近では、最新の空間演出「プロジェクションマッピング」を実施。かつて造船所のドックであった独特の形状を活かし、高さ約10 メートル・横幅約29メートルの船型の石壁に沿って映像を投影することにより、その世界に入り込んだような感覚が味わえる屋外では日本初の“180度体感型プロジェクションマッピング”となっています。

旧臨港線護岸

所在地
横浜市中区新港二丁目
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治43年(1910年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
鉄道院
施工
鉄道院
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

対外貿易港の役割を果たしていた横浜港の荷扱い能力を解消するために、1899年(明治32年)~1914年(大正3年)に新港埠頭の造成が行われた。それに合わせて埠頭に乗り入れる臨港鉄道の建設工事も進められた。

この臨港鉄道は初代横浜駅(桜木町駅)から延長する形で工事が行われ、従来の海岸付近への艀の出入りの利便を図って、大岡川河口の沖合に2つの細長い人工島を造成して、その間を橋で結ぶ形とされた。

それがこの谷積み護岸「旧臨港線護岸」である。この新港埠頭への臨港線は通称税関線と呼ばれ、複線で建設され全長は約0.8 kmであった。この経路は貨物支線としては1986年(昭和61年)に廃止となった。

1989年(平成元年)の横浜博覧会開催時にはこの路線を利用して会場ゲートがあった桜木町駅近辺から山下公園の氷川丸付近まで旅客列車の運行が行われ、博覧会終了と共にこの区間も廃線となった。

そして、1997年(平成9年)に汽車道として整備され現在に至る。春先には桜が満開に咲き乱れ、多くの観光客で賑わう人気のスポットです。

港一号橋梁

所在地
横浜市西区みなとみらい二丁目~中区新港二丁目
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治40年(1907年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
鉄道院
製作
アメリカン・ブリッジ社
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

桜木町駅から汽車道を通る際に一番最初に渡る橋が港一号橋梁です。汽車道は日本丸側(桜木町駅側)と新港地区(ワールドポーターズ側)を2つの人工島並びに3本の橋梁で結ぶ構造となっており、そのうちの一つ。

1907年(明治40年)に、港二号橋梁とともにアメリカン・ブリッジで製作されたトラス橋で、1909年(明治42年)に鉄道院により架設された。30フィートの鈑桁橋2連と100フィートのトラス橋からなり、複線相当の幅がある。

2012年(平成24年)10月24日から2013年(平成25年)3月15日まで補修工事を実施している。

'89横浜博覧会の時に一時的に復活した臨港線の映像がYouTubeにアップされています。現在の再開発が行われる前の新港地区の様子が見ることが出来る貴重な映像です。ぜひ一度ご覧ください。

港二号橋梁

所在地
横浜市中区新港二丁目
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治40年(1907年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
鉄道院
製作
アメリカン・ブリッジ社
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

桜木町駅から汽車道を通る際に2番目に渡る橋が港二号橋梁です。汽車道は日本丸側(桜木町駅側)と新港地区(ワールドポーターズ側)を2つの人工島並びに3本の橋梁で結ぶ構造となっており、そのうちの一つ。

1907年(明治40年)に、港一号橋梁とともにアメリカン・ブリッジで製作されたトラス橋で、1909年(明治42年)に鉄道院により架設された。30フィートの鈑桁橋2連と100フィートのトラス橋からなる複線相当の幅がある。

2012年(平成24年)10月24日から2013年(平成25年)3月15日まで補修工事を実施している。

昭和55年(1980年)6月13~15日に横浜開港120周年記念として、東横浜~山下埠頭(臨港線)をSL(C581)が走った際の映像がYouTubeにアップされています。現在の再開発が行われる前の新港地区の様子が見ることが出来る貴重な映像です。ぜひ一度ご覧ください。

港三号橋梁(旧大岡川橋梁)

所在地
横浜市中区新港二丁目
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治39年(1907年)夕張川橋梁として製作
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
鉄道院
製作
川崎造船所兵庫分工場
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

汽車道のワールドポーターズ側にある橋が港三号橋梁(旧大岡川橋梁)です。看板などでの名称は「港3号橋梁」と紹介されていますが、港3号橋梁として使用された経歴はありません。

元は1906年(明治39年)に架設された北海道炭礦鉄道夕張線の夕張川橋梁の100フィートトラス橋で、北仲地区に存在した横浜生糸検査所専用線の大岡川橋梁の3連ポニーワーレントラス橋として転用されたものです。

同位置に架けられた北仲橋の整備に伴い1994年(平成6年)に撤去され、今の地点へ再移設されたものです。本来の橋梁(イギリス製)も横に残存していますが、上に板が張られているので見物することは困難となっています。

新港橋梁

所在地
横浜市中区新港町1丁目~海岸通1丁目
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
大正元年(1912年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
大蔵省臨時建築部
施工
浦賀船渠
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

新港橋梁は、1911年(明治44年)に開通した桜木町駅と新港埠頭とを結ぶ臨港線(税関線)が、翌年、横浜税関倉庫まで延長される際に架けられた。

橋は、100フィートポニーワーレントラス橋で、「港一号橋梁・港二号橋梁」がアメリカ製、本来の「港三号橋梁」がイギリス製なのに対し、「新港橋梁」は日本における初期の国産トラス橋として知られる。

臨港線が1986年(昭和61年)11月1日に廃線となったのち、2002年に「山下臨港線プロムナード」が完成するのに合わせて遊歩道として整備された。「開港の道」の起点となっている汽車道から続く山下臨港線プロムナードに架かる橋として同じ場所に現存している。

旧税関事務所遺構

所在地
横浜市中区新港1-1
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治28年(1895年)~明治29年(1896年)
国宝・重文区分
なし
設計
不明
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

旧税関事務所遺構は、1914年(大正3年)に建設された旧税関事務所(右突堤中央事務所)の遺構です。主に船舶の係留、貨物の取扱い等の事務を行っていた。

煉瓦造スレートぶき、3階建てのゴシック様式の建物で、ガラス張りの天井ホールがあり、ガス暖炉、白熱電灯、給水管など当時としては最新鋭の設備が備えられていた。

しかし、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災により、新港ふ頭は壊滅的な打撃を受け「旧税関事務所」も床や屋根が焼失し、復旧されないまま埋め戻されていた。

昭和63年~平成13年にかけて行われた「赤レンガパーク」の整備の際に発見され、現在は「旧税関事務所遺構」として保存されるとともに花壇として利用されている。

赤レンガ倉庫

所在地
横浜市中区新港一丁目
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
1号倉庫:大正2年(1913年)2号倉庫:明治44年(1911年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物近代化産業遺産
設計
大蔵省臨時建築部(部長 妻木頼黄)
施工
1号倉庫:原木仙之助、2号倉庫:直営
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

赤レンガ倉庫は、明治政府によって保税倉庫として建設された。建設当時の正式名称は横浜税関新港埠頭倉庫で、2号館の裏には当初あった旧税関事務所遺構が残る。

2号館は1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に、日本が世界に誇る最新鋭の倉庫として完成し、保税倉庫としての役割を1989年(平成元年)まで担ってきた。

この頃、テレビや映画のロケ地として頻繁に利用されるようになり、特に1986年(昭和61年)に放送開始されたテレビドラマ「あぶない刑事」でより多くの注目を浴びた。

その後、しばらく放置されたのち、約9年に及ぶ保存・活用工事が終了し、2002年(平成14年)4月12日に1号館は展示スペース、ホールなどの文化施設、2号館は商業施設となり、付近一帯は広場と公園を備える赤レンガパークとして整備され現在に至る。

2022年12月6日(火)に開業後初のリニューアルを果たしました。2号館には、リニューアル前からあった人気店はもちろん、全国初出店のお店や横浜の企業の新店など、新規出店25店を含む66店舗が集結。

2号館2階のバルコニーにはゆったり休憩できるソファを新たに設置。ソファに座りながら、みなとみらいの景色を眺めることができるスペースになっています。

1号館1階には「横浜赤レンガ倉庫」の歴史をたどることができる歴史展示スペースを新設。倉庫として使われていた時代から文化・商業施設として利用されるようになった時代までの流れ、外観・内観の時代ごとの変化など、「横浜赤レンガ倉庫」の知られざる一面を知ることができます。

横浜税関遺構 鉄軌道及び転車台

所在地
横浜市中区海岸通1丁目(象の鼻パーク内)
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治28年(1895年)~明治29年(1896年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
不明
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

横浜税関遺構 鉄軌道及び転車台は、開港150周年を記念した「象の鼻パーク」整備工事中に発見された。

横浜港発祥の地である象の鼻地区は明治時代に横浜税関が置かれた場所で、明治28~29年(1895年〜1896年)に桟橋と税関構内の貨物運搬のために手押し車両用の設備として設置されたものです。

これらの鉄道施設は大正期まで使用された。これらは横浜港における海陸連絡設備の原初的形態の一端を伝えるとともに、鉄道技術史上も価値が高いもので、象の鼻地区の「開港の地」という土地の記憶を伝えていく上でも希少な遺構です。

今回の調査で同様の遺構が合計3か所見つかった。遺構は、地盤面より約90cm下から発見されたが、多くは関東大震災による被害を受けたほか、震災後に建てられた建物の基礎工事などで壊されていた。

今回は保存状態の最もよかった1か所(4基)を保全し、他は発見されたままの状態で埋め戻されました。現在は強化ガラスの蓋を通して見学することが出来る。

横浜市開港記念会館(ジャック)

所在地
横浜市中区本町1−6
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治30年(1897年)
国宝・重文区分
重要文化財、近代化産業遺産
設計
恒川柳作
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

横浜開港50周年を記念し、市民の寄付金により大正6年(1917年)7月1日に「開港記念横浜会館」として開館しました。

横浜最初の公開建築競技(コンペ)に基づき、旧町会所(明治7年竣工、明治39年焼失、設計ブリシェンス)の時計台のイメージを継承した案が当選し、実施に移された。建設経緯とともに、時計台を主調とした建築形姿が市民に深く愛される建造物の要因となっている。

赤煉瓦の外観には随所に花崗岩が用いられて、建築様式としてはいわゆる「辰野式フリー・クラシック」の系統に分類される。東南隅に高さ約36mの時計塔、西南隅に八角ドーム、西北隅に角ドームを配した構成は、明治期煉瓦建築の到達点を見事に示すものであったとされる。

しかし、大正12年(1923年)の関東大震災によって、時計塔と壁体だけを残し、内部は焼失し、屋根ドーム群も欠落してしまう。昭和2年(1927年)に構造補強をなすとともにステンドグラス を含めて震災復興期のデザインで統一し復旧したが、屋根ドーム群は復元されなかった。

戦後、接収解除された翌年の昭和34年(1959年)年6月に中区の公会堂として位置づけられ、名称が「横浜市開港記念会館」となった。

昭和60年(1985年)に創建時の設計図が発見され、ドームの復元工事に着手。平成元年6月16日に、大正時代そのままの姿に復元され国の重要文化財に指定された。平成29年7月1日、横浜市開港記念会館は、開館100周年を迎えた。

なお、老朽化に伴う保存改修工事のため令和3年(2021年)12月から令和6年(2024年)3月まで休館となっていましたが、4月1日より再び一般公開が始まりました。

横浜税関本関庁舎(クイーン)

所在地
横浜市中区海岸通1-1
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和9年(1934年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
大蔵省営繕管財局工務部
施工
戸田組
写真クレジット
Creative Commons License Rubber Soulさん
解説

1923年(大正12年)の関東大震災で2代目の横浜税関庁舎が倒壊焼失し、震災復興期の財政窮乏の続いた時代において税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。

この時代の大蔵大臣が「失業者救済のため土木事業を起こすべき」との発言を受けて、昭和7年(1932年)に就任した第22代税関長が失業者救済をかねて3代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められた。

当初の設計図では当の高さ47mの予定だったが、税関長が「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と4m高い現在の横浜税関(高さ51m)が完成し、当時横浜一の高さを誇った。

イスラム寺院を想わせる緑青色のドームは当初は赤銅色であったが長い時間を経て現在のような美しい緑青色へと変化してきた。建物にはインド古代建築風、ムーリッシュ、ロマネスク、クラシックなど様々な様式が見られ税関の国際的な性格を表してる。

青緑色のドームと、その優美なたたずまいから「クイーン」の愛称で親しまれ、神奈川県庁舎(=キング)、横浜市開港記念会館(=ジャック)とともに“横浜三塔”と呼ばれ、横浜港のシンボルとして親まれている。

この呼び名は、開港当時、外航船の船乗りたちが、横浜港に近づくと見えるこの建物(塔)に付けた愛称だと言われている。

なお、平成30年(2018年)1月9日から同年10月末まで外壁改修工事を実施しました。詳しくは、国土交通省関東地方整備局の報告書でご覧いただけます。

なお、夜になるとMM21から山下公園につづく景観への貢献を考えたライトアップ演出が行われている。4つのポイントから塔全体を一様に照らす方法を採り、冬季はナトリウム灯を用いて温かみを表現。夏季はメタルハライド灯によって涼しげな表情を出すよう工夫されている。

神奈川県庁(キング)

所在地
横浜市中区日本大通1-1
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
大正15年(1926年)
国宝・重文区分
登録有形文化財、重要文化財(2019)
設計
竹中工務店
施工
竹中工務店
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

1923年(大正12年)の関東大震災で、横浜は壊滅的な被害を受け、神奈川県庁本庁舎も焼失し姿を消しました。震災後の1928年(昭和3年)10月に4代目の神奈川県庁舎として現在の建物が建てられました。

再建築するにあたって設計の一般公募が行われ採用されたのが、小尾嘉郎の案であった。アール・デコを意識したモダンな鉄筋コンクリートビルの中央頂部に、重塔をモチーフとしたとされる建物のシンボルである塔が立ち上がっています。

塔は、和風意匠を用いた「帝冠様式」建築の先駆的事例とも言われています。この塔屋は「キングの塔」として親しまれており、横浜税関本関庁舎(クイーンの塔)、横浜開港記念会館(ジャックの塔)とともに「横浜三塔」の一つに数えられる。

かつてこの塔は「修養塔」とよばれており、最上階に横浜の総鎮守とされる伊勢山皇大神宮の分霊が祀られていた。1996年(平成8年)に登録有形文化財(建造物)に登録された。

平日の8時30分〜17時15分には、歴史展示室(6階)と屋上展望台が一般開放されており、屋上からはジャックの塔が見下ろせる。海側は大さん橋やベイブリッジなどの眺望が楽しめる。

また、本庁舎公開日には普段は公開していない知事室、旧議場(大会議場)及び旧貴賓室(第3応接室)が見学できます。公開場所では「キングサポーターズ」(庁舎案内ボランティア)が案内してくれます。

夜間にはライトアップを行なっています。時期によって内容に合わせたカラーで実施されます。神奈川県(県庁本庁舎)のライトアップ実施予定はこちらでご確認いただけます。

旧横浜生糸検査所

所在地
横浜市中区北仲通5-57
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
平成5(1993)年 旧建物:大正15年(1926年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
遠藤於菟
施工
大林組
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

旧横浜生糸検査所は、日本から輸出される生糸の品質向上を目的として、1896年(明治29年)に現在の中区本町に横浜生糸検査所が発足。

関東大震災で被害を受け、1926年(大正15年)に北仲通(現在地)に鉄筋コンクリート技術の先駆者の一人で、横浜に数々の作品を残した遠藤於莵の設計により再建(RC造4階、地下1階)された。

昭和28年(1953年)に横浜農林総合庁舎となり、生糸で繁栄した横浜を象徴する近代建築として、「キーケン」の愛称で長く市民に親しまれた。

しかし、既存の建物は、執務室に必要な内部空間の確保や構造体をそのまま保存・活用することが困難だったため、記録調査を実施し建物すべてを解体した。

1996年(平成8年)に新しく23階建ての高層ビル建て、その低層部分に創建当時の建物を新築復元(ファサード保存)させて、横浜第2合同庁舎として竣工した。

合同庁舎の整備にあたっては、歴史的景観の保全に寄与するよう市民に親しまれた外観を創建時に近い形で復元するとともに、現代的デザインの高層部分をセットバックさせることで、景観に配慮されている。

なお、平成7(1995)年度より、夜のライトアップを実施ています。

ホテルニューグランド本館

所在地
横浜市中区山下町10
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和2年(1927年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物、近代化産業遺産
設計
渡辺仁
施工
清水組
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

ホテルニューグランドは、海外からの要人の迎賓館として開業し、数多くの著名人に愛された日本有数のクラシックホテルで、横浜を代表するシンボルです。

横浜港が外国からの渡航者が降り立つ場所として主流だった頃、彼らのための宿として山下町界隈には多くのホテルが軒を連ねていた。そんな外国人向けホテルの代表格が「グランドホテル」という1873年(明治6年)に開業した日本最大の外国人向け豪華ホテルがあった。

ところが大正12年(1923年)9月1日、関東を襲った大震災は、華やかだったホテル街もろとも横浜を瓦礫の街としてしまった。

震災後、横浜の人々にとってグランドホテルというシンボルを失う喪失感や、外国人向けの宿泊施設が不足していたこともあり、当時の横浜市長、有吉忠一と政財界によってホテル建設の計画が動き出す。

市民の復興への期待を受けつつ、震災からわずか4年後の昭和2年(1927年)12月1日、震災の瓦礫で埋めたてた山下公園を正面に、銀座服部時計店(現、銀座和光)などを設計した渡辺仁により「ホテルニューグランド」として開業した。

この当時建てられた本館は、2016年(平成28年)6月1日~9月30日にかけて、100年、150年を見据えた歴史的建造物としての長期保存、防災・耐震の強化が施された。また、同ホテルのレストランから、ドリアナポリタンプリン・ア・ラ・モードが生まれ、現在でもザ・カフェ (The CAFE)で食べることができます。

旧東京三菱銀行横浜中央支店

所在地
横浜市中区本町4-41
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和9年(1934年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
矢部又吉
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

横浜市認定歴史的建造物となっている中で「旧川崎銀行横浜支店」と並びその現在の姿に疑念が残る建物が旧東京三菱銀行横浜中央支店です。

元は1934年(昭和9年)に川崎第百銀行横浜支店として建てられ鉄筋コンクリート造2階建てであった。横浜生まれの矢部又吉の設計になる正統的な古典主義建徳の骨格と細部を有する戦前の貴重な銀行建築であった。

東京三菱銀行の各支店統合により、土地と建物は横浜市ではなく、マンション建設会社に売却されてしまうという、不運の始まりが起きてしまう。

しかし、横浜市や日本建築家協会などからの強い要望(反対!?)により、かろうじて低層部の外壁3面に、銀行時代の外観意匠を新しい建物に貼り付けるファサード保存(かさぶた建築と揶揄されることもある)されることになり、2004年にディーグラフォート横浜クルージングタワーという高層マンションが竣工する。

元安田銀行横浜支店

所在地
横浜市中区本町4-44
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和4年(1929年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
安田銀行営繕課
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

昭和初期、本町通りから馬車道にかけては銀行が立ち並ぶ横浜の金融街だったころ、本町通りと馬車道が交わる現在の本町の角地に1929年(昭和4年)に安田銀行横浜支店として建設された。

同行は、大正末期から昭和初期にかけて各地に支店を設け、いずれもルスティカ積みの外壁と4本の付柱で構成され、よく似た外観をもっていた。その中でも最大規模の同建物は唯一現存するものである。

1948年(昭和23年)に財閥解体により安田銀行から富士銀行に行名が変更された後も、引き続き富士銀行横浜支店として使用され、1954年(昭和29年)2月には南側に増築された。

富士銀行が2000年(平成12年)にみずほホールディングスの傘下に入った後も、2001年(平成13年)の転出まで横浜支店として存在した。

2002年(平成14年)には横浜市が建物を取得し、2005年(平成17年)より、東京藝術大学大学院映像研究科馬車道校舎として利用されている。馬車道校舎は映画専攻の講義が行われている。

旧横浜正金銀行本店

所在地
横浜市中区南仲通5-60
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治37年(1904年)
国宝・重文区分
重要文化財、史跡
設計
妻木頼黄
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

横浜正金銀行本店は、1904年(明治37年)に建てらたネオ・バロック風建築物の旧館部分と神奈川県立博物館の開館にあたり増築された新館部分からなっている。

横浜正金銀行は、かつて存在した日本の特殊銀行で、敗戦後の1946年(昭和21年)にGHQの指令によって解体・清算された。

1947年(昭和22年)に外国為替銀行としての役割を受け継ぎ、東京銀行(現在の三菱UFJ銀行)が発足し、東京銀行横浜支店として使用された。

1964年(昭和39年)に神奈川県が建物を買い取り、建物の増築・改修工事を行い、関東大震災で焼失したドーム屋根の復元を行った。

1967年(昭和42年)3月20日に神奈川県立博物館として開館し、県立博物館の人文系部門を母体に、1995年(平成7年)3月に現在の神奈川県立歴史博物館として開館した。

1969年(昭和44年)、建物が「旧横浜正金銀行本店本館」として国の重要文化財に指定され、1995年(平成7年)には敷地を含め「旧横浜正金銀行本店」として国の史跡に指定されている。

元第一銀行横浜支店

所在地
横浜市中区本町6-50-1
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和4年(1929年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
西村好時、清水組設計部
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

1929年(昭和4年)に第一銀行横浜支店として建築されたトスカーナ式オーダーの列柱と半円形のバルコニーが特徴の建物です。

第一銀行横浜支店として利用された後、日本債券信用銀行横浜支店を経て、1980年(昭和55年)からは横浜銀行本店別館として利用された。

元は本町からみなとみらい地区につながる道路にあたる「横浜第2合同庁舎(旧横浜生糸検査所)」と隣り合う位置にあった。

2003年に北仲通南地区第一工区の開発計画として119mの超高層オフィスビル「横浜アイランドタワー」(高層棟)が建設された際に、低層棟にバルコニー部分を曳家工法で約1ヶ月かけて引っ張り、現在の場所へ移築して組み込み、同時にそれ以外の外観部分をファサードで形態復元された。

内部は2階吹き抜けになっており、創建当初をイメージして装飾されている。2009年(平成21年)5月よりヨコハマ創造都市センター(YCC)の施設として活用されていましたが、2020年3月末にて終了。長らく次期運営事業者選定中となっています。

旧横浜商工奨励館

所在地
横浜市中区日本大通11
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和4年(1929年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
横浜市建築課
施工
岩崎金太郎
写真クレジット
Wikipedia Commons License Wikipedia
解説

旧横浜商工奨励館は、関東大震災により打撃を受けた市内商工業界の復興事業として、昭和4年に米国領事館の跡地に建築された。

第二次大戦中は軍事高揚目的に利用され、戦後は庁舎を接収された横浜税関が一時的に奨励館で執務をとるなど時代の波に翻弄された歴史を持つ。

平成12年に「旧横浜商工奨励館」と「旧横浜市外電話局」を改修・耐震補強し、この二つの建物を取り込んだかたちで、地上12階建の「新館」が建てられ、放送ライブラリー日本新聞博物館を中心とした複合施設「横浜情報文化センター」として生まれ変わった。

まるで異国の街角のような雰囲気の建物1階にはレストラン(「一休.comレストラン」または「OZmall(オズモール)」で予約できます。)、2階にはカフェが入り、秋には通りに立ち並ぶイチョウを描く人や写真をおさめたりする人が多く訪れます。

旧横浜市外電話局

所在地
横浜市中区日本大通12
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和4年(1929年)
国宝・重文区分
横浜市指定有形文化財
設計
逓信省営繕課
施工
安藤組
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

「旧横浜市外電話局は、昭和4年(1929年)に横浜中央電話局として建設されました。

設計をおこなったのは横浜出身の逓信省技師中山広吉で外壁には濃茶色のタイルを全面に貼り、装飾を控えた堅実なデザインでありながら、2階から4階をまとめる柱型や頂部の石のコー二スに古典主義様式の細部を残すなど、昭和戦前期の逓信省建築特有の意匠が認められます。

各階の高さは異なっており、1階と3階は高くそれぞれ営業室、交換室として使用されました。また、2階には局長室、技術官室などの業務スペースが、4階には女子職員のための休息室や食堂、宿直室が設けられていました。

その後、市外電話局及びNTT横浜情報案内センターの時代を経た後、NTTの移転を機会に、横浜の施設として活用されることとなり、本町通り側および大桟橋通り側の外壁を創建当時のまま残して、平成15年(2003年)、新しく生まれ変わりました。」

【出典:現地案内板より抜粋】

現在は、「横浜都市発展記念館」と「横浜ユーラシア文化館」が同居している。

横浜開港資料館

所在地
横浜市中区日本大通3
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和6年(1931年)
国宝・重文区分
横浜市指定有形文化財
設計
大英工部総署
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

横浜開港資料館の旧館は、昭和6年(1931年)に建てられた英国領事館の建物で昭和47年(1972年)まで利用されていました。

その後、横浜開港100周年を記念して昭和56年(1981)6月2日の開港記念日に浜の歴史に関する資料を収集し、閲覧・展示・出版などにより一般に公開する施設として横浜開港資料館が開館しました。

この場所は日本の開国を約した日米和親条約が締結された土地で、中庭にはマシュー・ペリー来航時の記録画にも描かれているタマクスの木の子孫が植えられている。

これは横浜開港のシンボルとして知られており、開国博Y150のマスコットキャラクター「たねまる」もタマクスの木の精という設定となっている。

敷地内には、テラス席もあるゆったりとした雰囲気のカフェも併設されていましたが、何だか唯ならぬことがあったようです。

山手111番館

所在地
大正15年(1926年)
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
大正15年(1926年)
国宝・重文区分
横浜市指定有形文化財
設計
J.H.モーガン
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

「山手111番館は、横浜市イギリス館の南側にあるスパニッシュスタイルの洋館です。

ワシン坂通りに面した広い芝生を前庭とし、港の見える丘公園のローズガーデンを見下ろす建物は、大正15年(1926年)にアメリカ人ラフィン氏の住宅として建設されました。設計者は、ベーリック・ホールと同じく、J.H.モーガンです。

横浜市は、平成8年(1996年)に敷地を取得し、建物の寄贈を受けて保存、改修工事を行い、平成11年(1999年)から一般公開しています。

館内は昭和初期の洋館を体験できるよう家具などを配置し、設計者モーガンに関する展示等も行っています。」

【出典:公式サイトより一部抜粋】

地階には、以前は「ローズガーデン えの木てい」が入っていましが、2014年4月10日からは佇まいはほぼそのままに、新たに「Cafe the Rose」というカフェが入っています。ガーデン席ではワンちゃんと一緒にご利用できます。

横浜市イギリス館

所在地
横浜市中区山手町115-3
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和12年(1937年)
国宝・重文区分
横浜市指定有形文化財
設計
イギリス政府工務局上海事務所
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

「横浜市イギリス館は、昭和12(1937)年に、上海の大英工部総署の設計によって、英国総領事公邸として、現在地に建てられました。

鉄筋コンクリート2階建てで、広い敷地と建物規模をもち、東アジアにある領事公邸の中でも、上位に格付けられていました。主屋の1階の南側には、西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスは芝生の庭につながっています。

2階には寝室や化粧室が配置され、広い窓からは庭や港の眺望が楽しめます。地下にはワインセラーもあり、東側の付属屋は使用人の住居として使用されていました。

玄関脇にはめ込まれた王冠入りの銘版(ジョージⅥ世の時代)や、正面脇の銅板(British Consular Residence)が、旧英国総領事公邸であった由緒を示しています。

昭和44(1969)年に横浜市が取得し、1階のホールはコンサートに、2階の集会室は会議等に利用されています。また、平成14(2002)年からは、2階の展示室と復元された寝室を一般公開しています。」

【出典:公式サイトより一部抜粋】

入館は無料で、第4水曜日(休日の場合は翌日)。

山手資料館

所在地
横浜市中区山手町247
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治42年(1909年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
横浜・戸部の大工
施工
横浜・戸部の大工
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

山手資料館は、明治42年(1909年)に建造された。大正の関東大震災、昭和の第二次世界大戦と度重なる災禍に見舞われた横浜にあっては、大変貴重な明治期に建造された建築物である。

元は現所在地に近い諏訪町で牧場を営んでいた中澤氏が旧本牧上台57番地に建てた邸宅。当初は和風住宅に洋館が連結した和洋折衷の大邸宅であったが、関東大震災後の昭和2年(1929年)に洋館部分を旧牧場地の諏訪町に移築。その後、昭和52年(1977年)に現在地へ再移築された。

現在館内には、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵や、ジェラールの西洋瓦等、文明 開化当時をしのばせる展示品など、居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料が展示されています。

なお、平成2(1990)年より、夜のライチアップを実施しています。

山手234番館

所在地
横浜市中区山手町234-1
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和初期(昭和2年(1927年)頃)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
朝香吉蔵
施工
宮内建築事務所
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

山手234番館は、1927年(昭和2年)に民間事業として、関東大震災で市外へ移り住む人たちに戻ってきてもらうことを願って、外国人向けに建てらた集合住宅の一つである。

設計は朝香吉蔵で、隣接地にあり同じ設計者の「えの木てい(旧 山手89-6番館)」との意匠の共通点も多い。

1923年9月1日に発生した関東大震災では、横浜の多くの家屋が失われ、山手も瓦礫の山と化した。それに伴い、駐留していた外国人は、神戸市や上海など他の都市に移り住む者が相次いだ。

外国人に市外から戻ってきてもらうべく、横浜市は復興事業として山手や根岸に市営住宅を建設した。第二次世界大戦後の占領軍による接収を経て、1980年ごろまで外国人向けアパートメントとして使用された。

1997年(平成9年)より保全改修工事が行われ、1999年(平成11年)より一般公開されている。現在は元町公園の施設として館内を無料で見学できる。また、同年より夜のライチアップを実施しています。

エリスマン邸

所在地
横浜市中区元町1-77-4
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
大正15年(1926年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
A.レーモンド
施工
清水組
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

エリスマン邸は、横浜の生糸貿易商でスイス人のフリッツ・エリスマンの邸宅として、1925年から1926年にかけて山手127番地(現在地より南東に400mほどの位置)に建設された。

第二次世界大戦の被害を免れたものの1982年にマンション建設のため解体されてしまったが、その後、横浜市が部材を買い取り、1990年に元町公園内に移築・復元。

現在は元町公園の施設として館内を無料で見学できるほか、2階では山手や洋館にまつわる資料を展示。台所はカフェに改装され、2014年からは「しょうゆきゃふぇ」として営業していました。生プリンとしょうゆパンなどを提供して話題に。現在は、元町商店街の方に移転しています。

代わりに、2022年7月22日(金)に「Café Ehrismann(カフェ エリスマン)」が新規オープン。焙煎された味わい深いコーヒーや紅茶などのドリンクに加え、ケーキやアイスクリームなどのデザート、パスタ、カスクートドックといったフードメニューを提供しています。

地下は貸ホールとして展覧会などに貸し出されている。また、平成元(1989)年から夜間ライトアップが行われている。

ベーリック・ホール

所在地
横浜市中区山手町72
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和5年(1930年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
J.H.モーガン
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

べーリック・ホールは、イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、昭和5年(1930年)に建設された。設計は、東洋一のビルと言われた旧丸ビルを設計したアメリカ出身の建築家J・H・モーガン。

第二次世界大戦前まで住宅として使用された後、平成12年(2000年)まで、セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用された。

現存する戦前の山手外国人住宅の中では最大規模の建物で、スパニッシュ様式が特徴である。2000年に同校が閉校となったのちに横浜市が敷地を取得し、建物も市に寄贈された。

元町公園の一部として整備が行われ、2002年より一般公開されており、館内と庭園を無料で見学できるほか、結婚式場として貸し出しも行われている。また、平成14年(2002年)から夜間ライトアップが行われている。

ブラフ18番館

所在地
横浜市中区山手町16
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
大正末期
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
不明
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

ブラフ18番館は、関東大震災後に山手町45番地に建てられたオーストラリアの貿易商バウデン氏の住宅です。

戦後は天主公教横浜地区(現・カトリック横浜司教区)の所有となり、平成3年(1991年)に横浜市が部材の寄付を受け、山手イタリア山庭園内に移築復元し、平成5年(1993年)から一般公開されています。

震災による倒壊と火災を免れた住宅の一部が部材として利用されており、外壁は震災の経験を生かし、防災を考慮したモルタル吹き付け仕上げとなっています。

館内は震災復興期(大正末期~昭和初期)の外国人住宅の暮らしを再現し、当時元町で製作されていた横浜家具を修復して展示しています。さらに、平成27年(2015年)には2階の展示室を寝室にリニューアル。本館につながる付属棟は、貸しスペースとして、ギャラリー・展示会などに利用されています。

外交官の家

所在地
横浜市中区山手町16
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
明治43年(1910年)
国宝・重文区分
重要文化財
設計
ジェームズ・ガーディナー
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

外交官の家は、ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治政府の外交官内田定槌の邸宅として1910年(明治43年)に建築された。

アメリカ人建築家のジェームズ・ガーディナーの設計による塔屋付き木造2階建の西洋館で、東京都渋谷区南平台町に建てられた。1997年(平成9年)に横浜市に寄贈され、山手イタリア山庭園に移築復元のうえ一般公開された。

1階は食堂と客間、2階は寝室や書斎が再現され、展示室にはガーディナーの建築作品や、当時の外交官の暮らしに関する資料が展示されている。附属棟には喫茶コーナー、Bluff Garden Cafe (ブラフガーデンカフェ) が設けられている。

横浜山手聖公会

所在地
横浜市中区山手町235
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和6年(1931年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
J.H.モーガン
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

横浜山手聖公会は、外国人墓地の斜向かいの山手本通り沿いにあるプロテスタント・日本聖公会の教会堂である。

現在の聖堂は3代目で、設計は、旧丸ビルや日本郵船ビルの建設に携わったのち横浜を中心に活動し、旧アメリカ領事館、旧横浜競馬場一等馬見所、山手111番館、ベーリックホールなど数多くの作品を残したJ.H.モーガンによるもので、外形は大谷石を使ったノルマン様式。

関東大震災に2代目が倒壊し、3代目は第二次世界大戦中の空襲により屋根が焼け落ちるなど大きな被害を受け、平成17年(2005年)には放火により屋根が焼け内部が全焼しするなど、幾度も災禍に見舞われながら、その都度力強く復興を果たしてきた。

なお、平成5年(1993年)より夜間ライトアップが行われている。

カトリック山手教会聖堂

カトリック山手教会聖堂サムネイル写真
所在地
横浜市中区山手町44
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和8年(1933年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
J.J. スワガー
施工
関工務店
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

禁教令の緩和直後、横浜居留地80番地(現横浜市中区山下町80)に、パリ外国宣教会が創建した横浜天主堂が献堂された。この双塔を持つゴシック風の威風堂々とした聖堂は、1906年(明治39年)に現在地に移転した。

横浜天主堂は、近代日本最初の教会であり、現在のカトリック山手教会の初代聖堂です。1923年(大正12年)の関東大震災によって崩壊してしまいます。

その後、1933年(昭和8年)に山手教会信徒・チェコ人のヤン・ヨセフ・スワガーの設計により、鐘楼をもったゴシック式鉄筋コンクリート作りの美しい現在の聖堂が献堂され、現在に至る。

横浜海岸教会

所在地
横浜市中区日本大通8
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和8年(1933年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
雪野元吉
施工
宮内工務店
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

1872年3月10日(旧暦明治5年2月2日)に横浜公会として設立された、日本で最初のプロテスタント教会。1875年(明治8年)に教会堂が建設されて、日本キリスト教会横浜海岸教会と改称された。

1923年(大正12年)の関東大震災で教会堂が消失する。現教会堂は、震災の10年後の1933年(昭和8年)に再建された。設計したのは、宮内省(現在の宮内庁)の建築技師で、北欧東欧を中心にヨーロッパ建築を学んだ雪野元吉。当時横浜に在住していた雪野元吉がクリスチャンだったことから、この設計を無償で行ったと伝えられている。

1945年(昭和20年)第二次大戦時には空襲を受け、焼夷弾が屋根に落ちたこともあったが、それを叩き落とし教会は無事終戦を迎える。

2015年(平成27年)に、82年ぶりとなった大改修が行われ、窓枠全ての取り換えを含めた外観の全面改装のほか、老朽化対策や耐震補強、信者の高齢化に配慮したバリアフリー化が施された。

それに伴い、新たに月1回、礼拝堂を一般公開する日も定められた。礼拝堂の一般公開は、毎月第3金曜日 午前10時から午後3時まで。

なお、昭和63(1988)年より、夜のライチアップを実施しています。

横浜指路教会

横浜指路教会サムネイル写真
所在地
横浜市中区尾上町6-85
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
大正15年(1926年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
竹中工務店
施工
竹中工務店
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

1892年(明治25年)にアメリカ長老教会から派遣された、宣教医J.C.ヘボンの尽力により、赤レンガの教会堂が建てられた。その時ヘボンの母教会の名"Shiloh Church" から指路教会と名前が付けられました。

この教会堂は1923年9月の関東大震災によって倒壊してしまいます。1926年(大正15年)に再建されたものが、現在の建物です。震災を教訓に当時最先端の鉄筋コンクリート造を採用しながら、デザインはゴシック風の教会らしい建物になっています。

その後、1945年5月の横浜大空襲によって内部が全焼など、幾多の厳しい事態に直面しながら今日に至ります。2000年12月には、創立125周年記念事業の一つとして、スイス/マティス社のパイプオルガンが設置されました。

横浜にある歴史的建造物は、様々なドラマや映画などの撮影ロケ地として選ばれることが多々あります。2016年1月30日公開の映画「さらばあぶない刑事」で、真山薫が所長だった「重要物保管所」として登場として登場しています。

動画配信サービスなら「Hulu」(無料トライアル実施中!)、Blu-ray(Amazon楽天ブックス)で見ることができます。もう一度見たい方も、まだ見てない方も、ぜひ「タカ&ユージ」(舘ひろし&柴田恭兵)の名コンビをご覧ください!

なお、平成元(1989)年より、夜のライチアップを実施しています。

日産自動車株式会社 横浜工場1号館

所在地
横浜市神奈川区宝町2
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和9年(1934年)、昭和10年増築
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物、近代化産業遺産
設計
中央土木株式会社
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

日産自動車は、1933年(昭和8年)に自動車部品から最終組み立てまで行う一貫生産工場をもつ自動車製造会社として、横浜の地に創立した。

横浜工場1号館は、1934年(昭和9年)に誕生した横浜市内唯一の戦前期の工場事務所ビルです。1968年(昭和43年)に本社が東京・銀座に移転するまで、本社として利用されていました。

右手に隣接して1933年(昭和8年)建築の建物があったが取り壊され、現在はこの建物が横浜工場ゲストホールとして当時の姿を再現して保存されている。

また建物の内部には「日産エンジンミュージアム」が開設されている。自動車の心臓部にあたるエンジンにスポットをあて、横浜工場が操業を開始した1935年製の7型エンジンをはじめとする、28基の歴代エンジンが展示されています。

R32, R33, R34の第2世代スカイラインGT-Rに搭載されていた名エンジンRB26DETTや最新のGTRのエンジンVR38DETTももちろん展示されています。誰でも無料で見学することが出来ます。

インド水塔

所在地
横浜市中区山下町279 山下公園内
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和14年(1939年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
鷲巣 昌
施工
清水組
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

山下公園の大さん橋よりの片隅に、インド水塔はひっそりと立っています。以前あったHAPPY LAWSON山下公園店(2020年9月30日(水)18時に閉店)の目の前にあり、多くの人が脇を通りつつも、ほとんどの人は気にかけていないと思います。

これは、昭和14年(1939年)に完成したインド式水飲場で、在日インド人協会から横浜市に寄贈されたものです。当時横浜に在住していたインド人が関東大震災で被災した際に、横浜市民は町の復興と共に、被災したインド人にもその救済の手を差し伸べた。

そして、横浜で住む場所を失ったインド人を横浜に再び招くため、住宅の手当てなどにも力を注いだのである。そんな横浜市民のインド人に対する援助への心からの感謝、また、不幸にして亡くなった同胞の慰霊として建てらたとされている。

丸いドーム状の屋根が目を引く寺院建築の様式を取り入れた、国柄を表す非常に美しい造りになっていて、内部を覗くと天井部の装飾が大変素晴らしく、色とりどりのタイルを使用したモザイク模様が素晴らしい。

なお、HAPPY LAWSON山下公園店の跡地の活用については、山下公園レストハウス リニューアルについてでご確認いただけます。

大原隧道

所在地
横浜市南清水ヶ丘76-10~南太田2-222
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和3年(1928年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物、土木学会選奨土木遺産
設計
横浜市
施工
不明
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

大原隧道は、関東大震災復興事業として横浜市水道局により1927年(昭和2年)6月に着工、翌年7月に完成した全国的に珍しい水道幹線路と公道併用トンネル。

現在でも主要な水道施設として使われている。全長254m、高さ3.62m、幅2.44mで、西谷浄水場から蒔田・磯子方面への水道本管を併設している。

坑門はフランス積みにした紫褐色の焼過煉瓦と花崗岩による独特のデザインが特徴。トンネルは人の手によって掘削され、清水ヶ丘公園の下を貫き、清水ヶ丘と南太田を結んでいる。

トンネルは水道局職員のための管理用の通路でしかなく、今のような生活道路としての役目はなかった。一般の人も通れるようになったのは、1972(昭和47)年に周辺に団地などができてからのことである。最近ではその美観から、ドラマやプロモーション撮影等にも使われている。

長者橋

所在地
中区日ノ出町1丁目24番地7地先
地図
Apple マップ / Google マップ
建築年代
昭和3年(1928年)
国宝・重文区分
横浜市認定歴史的建造物
設計
内務省復興局横浜出張所
施工
池田組
写真クレジット
Copyright © Project 結《YUI》
解説

江戸時代初期に吉田新田の完成に伴って架けられたのが最初で、明治7(1874)年には山手町の 外国人居留地からの馬車の荷重に耐えられるように木造の橋にするなど、長者橋は横浜の発展と 共に交通の要衝となりました。

大正12(1923)年、関東大震災で当時の長者橋は焼失しましたが、昭和3(1928)年1月20日に震災復興橋梁として現在の長者橋が竣工しました。

長者橋は大岡川に架かる他の橋に比べて地盤が良好で、構造上・景観上から、地域の中心に位置するシンボルとして、優雅な曲線が景観に調和するアーチ橋が選ばれたと考えられます。

震災復興橋梁として現存する鉄筋コンクリートアーチ橋は長者橋、霞橋、桜道橋の3橋であり、唯一河川に 架かる長者橋は、横浜の橋梁史の一端を担う貴重な橋梁です。

コンクリートアーチ橋としての存在感のある優美な外観と、みかげ石張りで形作られた細やかなディティールが組み合わさり、優れた景観を形成しています。

川沿いの桜並木とも調和した景観をつくり、付近の桟橋を活用した水上交通・水上アクティビティが親しまれています。令和4(2022)年 3月24日に、認定歴史的建造物として98件目、橋梁としては15橋目となる「長者橋」を新たに認定されました。